前回のコラムから、大変時間が経ってしまいました。「書く」という行為は、魂からおこなおうとすると、一定の精神状況を必要とします。言うまでもないことかもしれませんが、静かな環境、思索に没頭できる環境がどうしても必要です。
いま、わたしのPCには三つの交流ツールが入っています。MSM(Microsoftメッセンジャー)、ヤフー・メッセンジャー、そしてSkypeです。これらは、遠隔地の仲間、中国や米国にいる海外の仲間と気軽に連絡を取り合うことができるという点では、じつに便利なツールです。すこし大袈裟かも知れませんが、使い始めた頃は世界が変わった、という気にさえなったほどです。
ところが、実務に明け暮れ、朝から晩までPCの前、という生活が定着してしまうと、これはもう「思索」どころの騒ぎではなくなります。とにかく、こちらのやっていることとは全くお構い無しに、世界中から(!)チャットで呼び出されるのです。おまけに、いまや「ユビキタス」などという言葉がもてはやされるほどに、それこそトイレのなかにまで「ケータイ」生活が押し寄せてきています。
G・オーウェルの「1984年」は、"ビッグブラザー"が支配する全体主義体制、徹底した管理社会の極北を描き、嘗て話題になりましたが、いまや、人間は、みずからが生み出した電子の玩具に、徹頭徹尾、人生の「時間」を支配される状況となっている。
もちろん、これは、単なる言い訳に過ぎません。「時間」を慈しむ能力を持っているのも人間、の筈なのですから。もう一度、エンデの「モモ」を読みたくなりました。
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話は変わります。
中国の腐敗問題に対して、中央政府が執政能力の強化、厳格な刑罰、峻厳な法律をもって臨むことこそ待ち望まれている、とした郎咸平教授のご意見について、わたしは「裸でエベレストに登るほど」難しい、と生意気に申しました。
中央政府の統制力、強制力で各級政府の「腐敗」をただす−これを、一党独裁の現体制下で達成することは至難の業、と言ったことの意味を、ここで申し上げなくてはなりません。
中国だけの話ではなく、およそ独裁体制の社会一般の問題と言うべきでしょうが、例え話でお話しましょう。話の前提は、独裁体制が敷かれていること、法律よりは人間関係=権力者とのコネのほうが圧倒的に幅を利かせる社会であること、そして、社会を指導すべき<理念>、社会が掲げている<理想>(あるいは道徳律)が、往々にして人々に顧慮されなくなってしまった状況が成立している場合です。
わたしの知人が北京におります。彼は、いわゆる中共中央の幹部。中央省庁の中堅職員です。非常にスマートで、インテリなのですが、"権力の味"を嗜み過ぎたきらいがある。どういうことかといいますと、彼は非常に大酒呑みなのです。とにかくよく呑む。50度のスピリッツを、大きなグラスでどんどん空ける。当然、それでは再見!のときには、毎度したたかに酔っ払っているわけですが、その彼が、いつもそのまま愛車を運転して家路に着くのであります。水滸伝の豪傑みたいで、さすが中国だ、などと言ってはなりません。もう21世紀なのです。それでも彼は、へべれけで帰ります。
先だっての酒席で彼は、こう豪語しました。「この間、中南海の前で、したたか泥酔していたために、前の車にぶつかってしまった。でも、結局なんでもなかった。北京には偉いさんが多いから、警官もまずは相手をよく見るんだ」−
いくつも例え話を持ってくる必要は、もう無いでしょう。つまりは、中央から地方に至るまで、権力が財力になる、という構造のなかで、<法律>や<規則>が、際限なく勝手に解釈され、あるいは無視されてしまうのです。権力に擦り寄り、そのネットワークを利用しながら便宜を得なければ、それこそ永遠に干された状況にいるしかない−わたしは、いまの中国社会が、上から下まで、そうした観念に囚われているとみております。
泥酔して交通事故を起こしても、わたしの知人が捕らえられないのはなぜでしょう?それは、中央から地方に至るまで、罪を犯す手と、これを取り締まる手が同じだから、にほかならないのです。こうした状況にあって、<中央政府が執政能力の強化、厳格な刑罰、峻厳な法律をもって臨む>ことを待ち望んでも、それは、ほとんど不可能に近いと言わざるを得ないのです。
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では、現代中国社会が抱えるこうした問題にまったく解決の見込みがないのかといえば、そうでもないと、わたしは考えています。それはおそらく、きわめて実利的な観点から生まれてくるように予想しています。
あらゆる社会、企業に共通することですが、健全な競争原理が貫徹されず、<公正さ>や<透明性>に欠ける共同体からは、優れた人材が逃げ出す、という鉄則があります。才能や努力よりも、非公式的な人間関係、カネや血縁に拠るコネが幅を利かす社会は、総じて真にすぐれた人材を活かせず、夥しいほどの人材流出を結果します。
わたしが初めて中国の土を踏んだ80年代は、まさにそうした時代でした。政治思想が悪いから、などという訳の分からない理由で、電子工学科を出たエリート大学生が製靴工場に配属されたりしていたのです。だから、それこそ猛烈な勢いで、優秀な人材が海外へ海外へと堰を切ったように流れ出ていた。
これが「人材流出」の典型ですが、やがて90年代に入ると<人材流出>から<人材還流>へ向かう趨勢が現れてきます。その原因は、言うまでも無く、中国自身の高度経済成長が始まったから。より正確を期して言えば、<人材>が力を発揮できる大きな機会が現れてきたからであります−この辺りについては、わたしのエッセイ「シリコンバレーと中国−人材大還流の実相http://pcweb.mycom.co.jp/news/2002/06/28/14.htmlをご覧ください)。
中国に戻れば、大いに力を発揮し、高度成長のなかで巨万の富を築けるかもしれない。要は、そういう一攫千金の動機で、数百数千の海外在住中国人−それらの多くは留学経験者−が、祖国に還流し始めたという事実です。
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いま、中国は、独裁体制下の非合理主義と、グローバル競争に勝つためには避けられない合理主義の間で、大きく揺れています。国有企業全盛時代は、政治力と人脈力がモノをいったかもしれません。しかし今では、高度な専門性を持たない経営者が生き残る余地などそうそう残っていないでしょう。とりわけ、わたしが注目するのは、90年代後半以降、日本はじめ諸外国から政策、経営、技術の各面で多くの経験を吸収し、世界的な電子機械工業の基盤を作り上げた華東、華南の両地域です。これらの地域では、すでに海外から、豊富なマネジメント経験をもった人材を政策官僚として(!)招聘し始めています。地域間競争、海外との競争を勝ち抜くには、単に企業レベルでの経営革新があるだけでは到底足りないからです。発展戦略の根底に、人材を見い出し、育み、これを活かす思想と体制が無ければならないということに、人々が真に気付き始めているのです。
こうした合理性への欲求が、社会のありように変容を迫る可能性があります。それはすでに、華南などのマスメディアで、しばしば自律的な精神のほとばしりとして、現れはじめています。
中央政府は、これまでも「腐敗撲滅」を声高に唱えてきました。けれども「腐敗問題」は一向に無くならなかった。地方レベル、より下位の行政レベルでは、いわゆる「黒社会」と政治権力との癒着があまりにひどく、農民らへの際限の無い収奪をおこなっている場合すらあります。昨年も、二万件以上の農民「暴動」があったとされる所以です。
悲惨の<闇>は、いよいよ深いのだけれども、経済発展の進む省市では、成長の<光>もまた眩い。やはり、依然として、現代中国を捉えるキーワードは、<光>と<闇>にほかならないと、わたしは思っています。
薄田 雅人
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