国内マスコミなどが報じるところによれば、日露戦争の激戦地として名高い「ニ○三高地」がある大連市旅順口区が、この6月中にも「全面開放」される見通しだそうです。
旅順といえば、日本人、とりわけ名著「坂の上の雲」で明治の先達の行き方処し方に感動したわれわれにとっては、自らの近代史を振り返り、日本人としての自覚と誇りを改めて胸に刻むうえで、どうしても外せない「聖地」です。外国ですから、週末気ままに訪れる、というわけにはいきませんが、個人的なことながら、わたしは、横須賀の三笠記念公園とともに、この旅順には、定期的にお参りを続けております。
さて、旅順ですが、ここは、これまで中国海軍の施設が点在しているという理由で、その一部にしか、外国人を立ち入らせていなかったのです。たとえば、「ニ○三高地」はいいのだけれども、「東鶏冠山北堡塁」はいけない、といった具合でした。とはいえ、わたしも二度ばかり蛮勇を奮い、中国人のフリをしながら観光ツアーに紛れ込もうとしたことがあります。しかしそのたびに、連れが、どこからみてもあまりにも<典型的な日本人旅行客>であったためバレてしまい、ものすごく怖い顔をした警備員に怒鳴りつけられ、憤懣やるかたなく退散したものでした。どこまでが「開放」の対象になるかはともかく、おそらく、ほとんどの観光名所には、これで大手を振って行けるようになるわけです。
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旅順には、大連から自動車で参ります。いまは、道路も非常に整備されておりますから、それこそ日帰り小旅行といった感じです。わたしが最初に旅順へ行ったのは、5月始めの事でした。日本統治時代に植えられたとおぼしき桜が、道路沿いの其処此処に咲いており、非常に感慨深く思えました。欧米列強、とくに南進を目論むロシア帝国から恐るべき圧迫を受けながら、自国の存亡をギリギリのところで守ろうとした明治の先達は、どのような思いで、この異国の大地を踏んだのであろうか。郷里や家族から引き離され、鉄とコンクリートで固められたロシアの永久陣地に「肉弾」で飛び込んでいった幾千万の無名兵士は、どのような感慨で、この地を踏んだのだろうかと、春の芳しい空気を車窓からかぎながら、わたしは止め処なく思いを巡らしたものでした。
ところが、「ニ○三高地」に着いてみると、わたしのそんな感傷は、あっという間に掻き消されてしまいました。まずは、騒々しいスピーカーから流れる土産物屋の呼び込み。店の老主人と思しき方がすばやく近寄ってくると、「日本語でガイドをいたしますよ、いかがですか」と、これまた積極的な売り込みをかけて来ます。しかし、極め付けは、「ニ○三高地」頂上の記念碑までの坂道を観光客を載せて登る「駕篭かき屋」でした。いかにも柄の悪い駕篭かき人夫が、日本人であれば、いちおう静かに味わいたいこのアプローチで、道行く日本人観光客を無理やり駕篭に載せようとするのです。そのしつこさ、厚かましさといったら、わたしの脇を歩いていた年老いたご婦人が「怖い」と思わず尻込みしてしまうほどでした。
「ニ○三高地」の頂上には、いわゆる「爾霊山記念碑」が立っています。これは日露戦争が終わった1905年に建て始め、1913年に完成した銃弾を模した慰霊碑で、ニ○三高地で拾い集められた弾丸や薬莢を鋳造して作られたものです。まさに、この地こそ、日本人にとっては「聖地」であります。
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しかし、「聖地」は、もはや、われわれの心の中にしか存在していないことを、思い知らされることになったのです。土産物屋が立ち並ぶのは良しとして、慰霊碑の鉄板に刻まれた無数の落書き、それらの多くは、旅の記念に、と刻まれた名前や、相合傘の類でしたが、はしゃぎながら記念撮影に興ずる中国人観光客をみれば、もう、此処は、単なる観光名所のひとつに過ぎないという、或る意味では当たり前すぎる事実を再確認せざるを得ませんでした。近くに、史跡案内、とでも言うべき、看板が立っておりました。そこには、日本とロシアという帝国主義国家が、旅順を略奪し、傍若無人に戦火を交え、多数の中国人民が犠牲になったと記されていました。
ほんの少し考えてみれば、これが中国人の立場からすれば、あまりにも当たり前の捉え方である、ということがわかるはずです。考えてみてください。日清戦争で敗北し、20世紀に入るや否や、今度はロシアと清とが、朝鮮と九州の覇権をかけて、北九州全域で死闘を繰り広げた……。もちろん、こんなことは単なる出鱈目ですが、そんなことが仮にあったとして、しかもその後40年間もの長きにわたり、我が国の大半を列強、とくに中国に植民地化され、九州全土を「独立国」化されたりなどしたら、後世の日本人は、「北九州の戦い」を、果たしてどう思い起こし、記念するでしょうか。
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今回のコラムの冒頭でも書いたとおり、わたしは、明治の先達の、その尊い命をかけて、祖国の安全と独立を守った偉業を、いつも心に刻んでいます。それゆえに、「聖地」であるはずの旅順で、ニ○三高地で目の当たりにした中国人たちの落書きや、銭ゲバ的客引きの振る舞いを、心から苦々しく思ったのでした。けれども、「立場」を少しだけ、相手のほうに動かしてみると、まるで、全然異なる風景になることに、はたと思い至ったのでした。
いま、日本と中国というアジアの大国同士、永遠に変わりえぬ隣邦同士が、「歴史認識」をめぐり、あるいは、もっと直接的には、小泉首相の靖国参拝問題をめぐり、はげしく対立しています。靖国参拝問題では、いわゆる「A級戦犯」とされる人々を今後どう取り扱うかといった議論が政界、論壇で巻き起こっています。
世界をみても、とにかく、国境(くにざかい)を接する隣邦同士というのは、難しい関係になりがちです。むしろ、概して、平和的共存が永く続くという例のほうが珍しいくらいです。
我が国と中国の間にも、冷戦の終結、中国の台頭という世界史的な動きのなかで、新たな緊張が生まれてきていますが、これは、もちろん単に「歴史認識」だけが原因なのではありません。大国間のパワーゲーム、米国の対中戦略、対アジア戦略などが絡み合い、複雑な地形を形づくっているのです。
そうした事どもを念頭に入れながら、敢えて、この「歴史認識」問題の難しさを考えないわけにはいかない。その理由は、まさにこの「旅順」という土地に関する、日中両国民の想いが、あまりにも見事な相反を示すからに他なりません。
先達が築いた光輝の業績に、深い尊敬と感謝を覚えつつ、しかも、国土を蹂躙された過去に、強烈な怒りと恨みを抱く隣国人と、いかなる「歴史認識」を共有し得るのか─。
今後、旅順口区は対外解放され、日本企業に向けての投資誘致活動もおこなわれていくでしょう。そのとき、日本人と中国人は、どうこの「地」に向き合っていけるのでしょうか。中国人の面前では、<旅順は我が国の帝国主義的侵略の象徴>と反省をしてみせねばならないのでしょうか。わたしはむしろ、いまこそ、アジアと西欧の歴史、我が国の近代史における「日露」について、その思うところを彼らに伝え、語り合う努力を続けていかねばならないと考えております。それは、おそらく辛く、苦しい精神作業でしょう。けれども、胸襟を開き、語り合わぬところからは、なにも出てきません。両国の政界、論壇に関わる全ての人びとは、いまこそ勇気を持って、自らの「歴史認識」を語り始めるべきなのです。
薄田 雅人
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